2010年03月07日

情報の深さ

今読んでいる意識について書かれた本で、おもしろい概念が紹介されていた。

・情報の深さというのは情報の量ではなく「削ぎ取られた情報の量」である
・削ぎ取る情報がない均一さも、情報が削ぎ取られていない混沌さも情報としては浅い
・脳は毎秒約1100万ビットの情報を処理している。だが人が意識できるのは毎秒16ビット以下である。

例えばIRCやらtwitterで「無言リプライ」というものがある。無言リプライそのものには1ビットも情報はない。だけどリプライを飛ばされた側にも飛ばした側にもその意味するところはたちどころに分かる。それは何故かと言えばそれに至る文脈が有るわけで、無言リプライは削ぎ取られている文脈にこそ意味があるという事になる。

話は飛ぶ。twitterでとあるシンポジウムが中継されていて、興味深く読んだ。その中で映画監督黒沢清が話した事がある。要約すると

ハリウッド映画「主体性、大人、本物主義、深さ」
日本映画「受動性、未成熟、虚構との戯れ、平べったさ」

とのこと。日本映画は明確な狙いを持たず「カメラを回せば撮れる」から「映ってしまう」。だけどハリウッド映画はすべて計算尽くで撮る。で、アニメも狙いをもって描かれるからむしろハリウッドに近いというか、アバターやトランスフォーマーは日本で作り出したものを先に押し進めたものだとも。

ここで上記の情報の深さとしてのハリウッド/日本映画を考えてみる。あらゆる可能性のあるカットのなかから、計算尽くで一つのカットを選ぶという意味でハリウッド映画は「深く」なる。日本映画はとにかくカメラを回してそのまま撮すから「浅く」なる。だからハリウッド映画は「主体的」で「大人」とはいえる。
だけどその一方で、人間は意識に上らない情報も実は見ている。脳は網膜に映った情報を確実に処理しているのである。たった毎秒16ビットしかない意識でもって「計算尽く」にしたところで、果たしてそれが「豊かな情報」たり得るだろうか。垂れ流しとは言わないまでも、カメラを回してそのまま映ったものの方が「豊か」なのではなかろうか。「主体的」な映像は、むしろ視聴者を「受動的」にするのではなかろうか。

なんでこんな事を考えてしまうかと言えば「ライオン」が「計算尽く」で、SSまで付けて視聴者に見方を「押しつける」動画だったからだ。もちろんSSは読まなくても動画単体で十分楽しめるようにしたし、意図する以外の見方は絶対認めないなんて事は決してない。だけど方向性としてはそうだったのは間違いなく、それは視聴者の想像を狭めるのではなかろうかと前々から思っていた。
ジャズ伊織の頃は無印時代で苦労して撮ったAutoカメラに思わぬ表情が映っていてハッとしていたように思う。もしかしたら撮ったままの方が時として良くなるかもしれない。視聴者の想像力をかき立てるかもしれない。すべてに狙いを付けるMMDや手書きより、ゲーム素材のアイマスMADが優位な点の一つかもしれない。
posted by tlo at 17:43| 日記